礼拝説教要旨

5月26日の説教要旨

「再臨の約束」使徒1:1-11
鎌野 幸師
1.再臨の約束
 イエス様が天に昇って行かれる様子を見つめていた弟子たちに、み使いが「イエスはまたおいでになります」と再臨を約束しました。イエス様は世の終わり、裁きをするために再臨されます。この約束はこれから先に実現する、私たちにも関係のある約束です。
2.恐怖か、喜びか
 自分の罪深さを自覚するなら、裁かれ、死と滅びに定められるイエス様の再臨の時を恐れずにはいられないはずですが、イエス様を裏切った弟子たちは「再臨の約束」を聞いて喜びました(ルカ24:52)。それは弟子たちがよみがえられたイエス様と出会い、罪深い自分たちでも愛され、赦されていることを体験し、十字架と復活のイエス様こそ栄光の主と知ったからでした。イエス様をより深く知り、体験するなら、再臨は愛するイエス様に再会できる喜びの時になります。
3.再臨の時のために
 約束から2000年、再臨の時が延ばされているのは、造られた全ての人がイエス様を知り、信じ、救われるためです。弟子たちだけでなく私たちもイエス様の証人となり、イエス様の十字架の死と復活、イエス様の愛と赦しを伝えていきましょう。

5月19日の説教要旨

「互いに愛し合いなさい」ヨハネ13:1-15,34-35
鎌野 幸師
1.新しい戒め
  イエス様は旧約聖書で語られている「自分を愛するように隣人を愛する」ことに加え、「新しい戒め」として「わたしがあなたがたを愛したように」愛しなさいと語られました。
2.イエス様の模範
 師であるイエス様は、弟子たちの汚れた足を自ら洗うことを通して、①誰が一番偉いか、一番下かなど関係なく、相手の必要のために僕となって仕えること②自分を裏切るような相手であったとしても、「自分のもの(ヨハネ13:1)大切な存在」として愛し仕えること を教えられました。
3.互いに愛し合う
 イエス様は、イエス様を中心にして共に生きる弟子たちに「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいました。教会に集う私たちも、イエス様を中心にして共に生きるイエス様のものであり兄弟姉妹です。イエス様の模範に倣って互いに愛し合いましょう。「愛」は受け取ることも大切です。自分の弱さや失敗、プライドも捨てて「愛」を受け取りましょう。
4.神を全ての人に示すために                  
 私たちがイエス様の模範に倣って愛し合うなら、そこに神がおられ(Ⅰヨハネ4:12)、神を見たことのない世の人々に真の神の姿を示すことになります。
 

5月12日の説教要旨

「神の子として」Ⅰヨハネ5:1-5
鎌野 幸師
1.神の子とは
 「神の子」とは、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死に、よみがえられたイエス様を私の救い主と信じる者のことで、その信仰は血筋や人間的な努力や苦労によってではなく(ヨハネ1:12)、神の不思議な選びと導きによって与えられます。大きな悩みや苦しみを通らなくても、劇的な変化がなくても、イエス様を救い主と信じる者は、誰でも「神の子」です。
2.神の子に注がれているもの
 人間の親はわが子を愛して命をかけて子を産み育てますが、それ以上の本物の愛をもって、父なる神様は「神の子」を愛されました。罪人を「神の子」として新たに生まれさせるために、一人子イエス様の命を十字架で犠牲にされました。それは新しく生まれた「神の子」と共に歩んで育む「聖霊」を与えるためでもありました。この父なる神様の「命を捨てるほどの愛」は、今も変わらず「神の子」に注がれています。
3.世に勝つ神の子                   
 私たちの置かれている「世」は、自分本位に生きる人たちのあふれる、愛のない暗いところです。しかし「神の子」は、父なる神様から愛を注がれて本物の愛を知り、聖霊により愛を行う力が与えられて、神と人を愛することができます。私たちは「神の子」として世に勝利していきましょう。
 

5月5日の説教要旨

「キリストの証人として」ルカ24:44-53
鎌野 幸師
1.キリストの証人
 復活されたイエス様は、幻ではなく現実のお姿を弟子たちに現わされた上で、弟子たちに「私が死の中からよみがえったことと、私による罪の赦しと救いを証言していきなさい」と命じられました。11人の弟子たちこそ、イエス様の死と復活をはっきりと見、教えを身近で聞き、イエス様による罪の赦しを体験していたからでした。地上から天へと帰られるイエス様は、ご自身の働きを弟子たちに委ねられました。
2.証人になるために
 イエス様は「エルサレムから地の果てまで」出て行って証言しなさいと命じられました。イエス様を十字架にかけた人たちであふれるエルサレムで語る勇気もなく、文化人たちに語るには知恵や知識のない無学な弟子たちでしたが、彼らが確信をもって恐れることなく証言できるように、イエス様は彼らの霊の目を開いて聖書の言葉を悟らせ、助け主なる聖霊をお与えになりました。
3.祝福してくださる主                   
 イエス様は弟子たちの祝福を厳粛に祈りながら昇天され、その後は天にて大祭司として彼らの祝福を祈られました。イエス様は、生きておられるイエス様を体験した私たちが証人として立つために、私たちにみ言葉による確信を与え、助け主なる聖霊を与え、今も天において祝福を祈ってくださっています。

4月28日の礼拝説教要旨


「目を開かれる主」ルカ24:13-32

鎌野 幸師

1.近づき、共に歩まれる主

 イエス様が十字架で死なれて三日目、暗い顔をして語り合いながらエマオの村に向かっていた二人の弟子たちは、自分たちに近づき共に歩んでいる人が「よみがえられたイエス様」だと気づきませんでした。彼らの目を遮っていたのは、イエス様に対する「間違った期待・・イエス様はイスラエルをローマから独立させてくださる救い主」から来る失望であり、「死んだ人が生き返るはずがない」という常識的現実的な考え方でした。イエス様は彼らの信仰の目を開くために、彼らに近づき共に歩まれました。

2.聖書を説き明かされる主

イエス様は道々、聖書全体からご自分、即ち救い主について彼らに説き明かされました。神の霊感によって書かれた聖書は、救い主の全体像を正しく証言しています。

3.目を開いてくださる主                   

 二人の弟子たちは、イエス様からの説き明かしを聞くうちに「心が燃え」、「もっと聞きたい」と願っている中で、目の前で一緒に食事をしている人が「よみがえられたイエス様」だと気づきました。「救い主についてもっと知りたい」と心燃やされ求めていく中で、私たちの信仰の目は開かれ、生きておられるイエス様を体験することへと導かれます。

 

4月21日の説教要旨

「絶望から希望へ」ルカ24:1-12
鎌野 幸師
1.「ここにはおられません。よみがえられたのです」
愛し慕うイエス様の壮絶な死、ご遺体の紛失によって絶望している女性たちに、み使いは「イエスはよみがえられた」と語りました。イエス様が生きておられるなら出会うこと、交わることができ、死を乗り越えた力をもって助けていただくことができます。そこに希望があります。しかし女性たちはこの知らせを信じることができませんでした。
2.「お話しになったことを思い出しなさい」
信じられない女性たちにみ使いは「イエスの言葉を思い出しなさい」と語りました。女性たちは、イエス様がかつて十字架の死とよみがえりを予告しておられたことを思い出し、「よみがえり」はイエス様の言葉の成就・実現だと気づき、イエス様の死からのよみがえりを信じて希望が与えられました。暗闇と絶望に向かいやすい私たちの心を「イエス様の言葉」即ち聖書のみ言葉へと向ける時、聖霊が働いて、私たちに「イエス様のよみがえり」と「イエス様の言葉の実現」を信じる信仰が与えられ、希望へと導かれます。
3.希望を抱いて歩むために                   
 教会の礼拝は、イエス様のよみがえられた日曜日に持たれます。礼拝の中で「イエス様のよみがえり」と「イエス様の言葉」を心に刻み、希望を抱いて歩みましょう。
 

4月14日の説教要旨

「救いの宣言」ルカ23:39-43
鎌野 幸師
1.悪口を言い続ける犯罪人
 イエス様の両側に十字架につけられた2人の犯罪人のうちの1人は、「あなたはキリスト(救い主)ではないか。自分と私たちを救え」と叫びました。まるで奴隷に命じるように「救え」と言い、自分の「死」の時が迫っても自分の罪の問題を顧みようともせず、イエス様に悪口を言い続けました。
2.神を恐れた犯罪人
もう1人の犯罪人は、はじめはイエス様をののしっていましたが、途中でイエス様を「神」と認めて恐れ、自分の罪を告白し、「御国で私を思い出してください」とイエス様のあわれみにすがりました。十字架の上のみすぼらしく弱弱しいイエス様の姿を見、声を聞いただけでなく、苦しみと痛みの中で「父よ、彼らを赦してください」と祈られるイエス様の姿をしっかりと見つめ、「なぜこのように祈れるのだろう」と問いかける中で、この犯罪人はイエス様の真の姿に気づき、信じ、すがりました。
3.救いの宣言                   
イエス様はこの犯罪人に「あなたは今、この時からずっと、私と一緒です。パラダイス=天国の平和と平安が与えられます」と宣言されました。イエス様こそ真の救い主と信じすがるなら、どのような人にもイエス様は真の救いを、天国の平安を与えてくださいます。
 

4月7日の説教要旨

「父よ。彼らをお赦しください」ルカ23:32-38
鎌野 幸師
1.「彼ら」のための祈り
 十字架の究極の苦しみの中で、イエス様は「父よ。彼らをお赦しください」と祈られました。「彼ら」とは、イエス様を十字架につけたローマ兵であり、イエス様を訴え捕らえさせた指導者たちであり、群衆の心理で「イエスを十字架につけよ」と叫んだ人たちのことです。「彼ら」は、イエス様が真の神とわからず、人の痛みや苦しみがわからず、神に敵対しながら、自分の恐ろしい罪に気づかない、「何をしているのかわからない」人たちでした。私たちも「彼ら」の一人です。
2.「赦してください」
 受けた傷が深いほど、また正義感が強いほど、「赦す」ことは難しいことですが、イエス様は「不義を行い、自分を深く傷つけた人々」のことを〇「愛するゆえに」〇「父なる神の御心に従うために」、「彼らの罪を赦してください」と祈られました。このイエス様の切なる祈りを受け入れて、父なる神は、「彼ら」の罪、私たちの罪を赦してくださいました。
3.私たちの応答
 
自分の罪に気づかされたなら「私の罪を赦してください」と祈り、「赦せない人」がいるなら「赦せるように」と祈り求め、罪の中に生きる人々が「赦されるように」とりなし祈っていくことが、「彼らを赦してください」と祈ってくださったイエス様に対する私たちの応答です。
 

3月24日の説教要旨

「イエス様のまなざし」ルカ22:54-62  
鎌野 幸師
1.イエス様を裏切ったペテロ
イエス様の一番弟子ペテロは、イエス様を三度「知らない」と言ってしまいました。裏切りの芽は、以前からすでにサタンによって植え付けられていました。〇イエス様の言葉を否定し (マタイ16:21~)〇自分の信仰は大丈夫だと弱さを認めず(ルカ22:31~)〇イエス様に「祈ってほしい」と依頼されても眠り込んでしまいました(ルカ22:40~)。この罪の積み重ねが主を否定する大失敗を産みました。私たちもペテロと同じように大失敗の芽を抱えているような者です。
2.イエス様のまなざし
イエス様はペテロの裏切りの言葉を聞かれ、ペテロを無視するのでも、攻撃するのでもなく、愛と慈しみと「信仰がなくならないように」と祈りの込められたまなざしでペテロを見つめられました。イエス様はペテロや私たちがどのような状態にあっても、いつも変わらず「愛のまなざし」で見つめておられます。
3.私たちを造り変えるもの
ペテロは鶏が鳴くのを聞いてイエス様の語られた言葉を思い出し、罪深い自分に気づき絶望して泣きました。しかし、このような自分も愛し受け入れてくださる、復活のイエス様にすがった時、岩のような信仰の人へと造り変えられました。 
 

3月17日の説教要旨

「キリストによる派遣」マタイ28:16-20  
鎌野 幸師
1.宣教命令の担い手
復活のイエス様を体験し、イエス様を捨てて逃げた罪を赦されてイエス様の愛を体験した弟子たちは、イエス様と再会し、イエス様を礼拝しました。イエス様を「人ではなく神、私の主」と認めたからでした。この弟子たちにイエス様は「大宣教命令」を語られました。イエス様は「イエス様の復活、愛と赦し」を信じイエス様を主として礼拝する私たちを「宣教」へ遣わされます。
2.宣教命令の内容
イエス様は人々を「弟子としなさい」。そのために「行って」「バプテスマを授け」「教えなさい」と命じられました。自分を守り、恐れのために出て行けない私たちですが、「一人でも滅びることがなく永遠のいのちが与えられるように」と願っておられる主の御心を受けて、どんな人々にもイエス様を伝え、人々がイエス様を信じて、イエス様と共に御国の価値観に生きる者となるまで教え導くことが「宣教」であり、私たちと教会にゆだねられている働きです。
3.共におられる主
イエス様は私たちを宣教に遣わすにあたり、「いっさいの権威を持つ私が共にいる」と約束されました。私たちは教会の兄弟姉妹と一つとなって、宣教の働きを進めていきましょう。