礼拝説教要旨

12月24日の礼拝説教要旨

「博士たちの礼拝」
マタイ2:1-12

 
                 2017年12月24日(日)クリスマス礼拝
野﨑 俊師
1.ヘロデ王の恐れ
 東方の博士たちが、星に示された救い主の誕生の知らせを受けて、エルサレムを訪れた時、その知らせを聞いたヘロデ王は恐れ惑いました。ユダヤ人たちが待ち望んでいたダビデ王家の血筋とされる救い主が生まれたなら、自分の立場が危うくなると考えたのです。自分本位の生き方は失われる恐れが付きまといます。

2.ひれ伏し拝んだ博士たち
 そのヘロデ王に対して、博士たちは幼子主イエスの前にひれ伏します。そして、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげました。この捧げ物は贈られた主イエスが王であり、神と人をつなぐ祭司であり、その道をご自身の死をもって開くお方である事を表しています。彼らは主イエスを自分の人生の主人としてあがめたのです。

 自分本位の恐れにさいなまれる生き方でなく、私たちのために命を捧げて下さった方のために委ね生きる真の平安の道を進みましょう。
 

12月17日の礼拝説教要旨

「罪からの救い主」
マタイ1:18-25

 
2017年12月17日(日)待降節第三主日礼拝
野崎 俊師
1.主イエスの系図
この箇所の前の主イエスの系図を見ると、罪のもたらす痛みの影響を見いだす事が出来ます。ダビデが姦淫と間接的な殺人の罪を犯してめとったバテシェバとの間に生まれたソロモンの奔放な女性関係の背後にはダビデの罪の影響を想像させられます。

2.主イエスの誕生
 その罪の流れのただ中に聖霊によって罪無き者として生まれた主イエスは「罪から救って下さる方です」と御使いが言ったように、十字架と復活の御業によって私たちを罪の縄目から解き放って下さいました。連綿と続く罪の悪影響の流れを、復活の主の御力によって私たちの所で止めさせていただきましょう。
 

12月10日の礼拝説教要旨

「インマヌエル預言」
イザヤ7:1-17

 
                 2017年12月10日(日)主日礼拝
野﨑 俊師
1.インマヌエル預言の語られた時代背景
 インマヌエル預言が語られた時代背景は、南ユダ王国がアラムと北イスラエル王国からの侵略の兆しを受け、恐れに駆られていた時に与えられていた時でした。そして、主により頼むようにという預言者の導きに背き、心かたくなに主に心を向けようとしなかった南ユダ王国のアハズ王に語られた預言だったのです。

2.私たちに語られるインマヌエル預言
 この事は、主に背を向ける頑なな罪人に、クリスマスの時誕生された主イエスの十字架と復活の御業によって罪許され、赦された罪人が「インマヌエル」、「神が私たちとともにおられる」との祝福を受ける事を指し示しています。

 神と隔てられた私たちがクリスマスにお生まれになった主イエスによって神と共に生きる者とされた事を心より感謝しましょう。そして、臨在の主は南ユダにそうであった様に、守るだけでなく懲らしめ整える御恵みを注がれます。
 

11月26日の礼拝説教要旨

「忠実なしもべ」
マタイ25:14-30

 
                 2017年11月19日(日)主日礼拝
野﨑 俊師
1.姿勢を問われる主
 このたとえ話で主イエスは、忠実なしもべとして主の再臨に備える事を教えられました。このたとえで着目させられる事は、5タラントもうけたしもべと2タラントもうけたしもべに対する賞賛の言葉が全く同じである事です。主は実績ではなく、いかに忠実に与えられた賜物を用いたかという姿勢を見ておられます。
  
2.誤った神様のイメージ
 最後の1タラント預けられたしもべは主人に対する恐れから失敗しない様に地中にお金を隠しました。神様に対してどのようなイメージを持っているかは信仰生活に大きな影響を与えます。主イエスは理不尽に厳しいお方ではなく、私たちの罪過ちを赦すために命を与えて下さった恵みに満ちたお方である事を覚えましょう。

 実績でなく姿勢を問われる主の御前に忠実な者として歩み、赦しに満ちた主の御恵みを思い、縮こまることなく信仰生活を送りましょう。
 

11月12日の礼拝説教要旨

「主の再臨に備える」
マタイ25:1-13

 
                 2017年11月12日(日)主日礼拝
野﨑 俊師
1.十人の娘のたとえ
 このたとえ話は賢く主の再臨に備えるとはどういった事かを語られた主イエスの教えです。婚宴のために花婿が花嫁を迎えに来た時出迎えた十人の娘の内、五人は賢く油を十分準備し、五人は愚かにも備えをしなかった事が語られ、切れた油を買いに行っていた時、花婿が到着し、愚かな娘たちは婚宴に参加出来ませんでした。

2.賢い娘となる
 では、この賢い五人の娘の様に主イエスの再臨に備えて生きるとは具体的にどのような事なのでしょうか?寸分の隙の無い生活を送るという事なのでしょうか?その答えはたとえ話の中にあり、油とは聖霊を意味し、聖霊に満たされ、自分の弱さを悟りつつ、聖霊の御助けと導きを仰いで生きる事が再臨に備えた者なのです。

 弱さを悟りつつ、聖霊の御助けを導きをいつも仰ぎ、聖霊に満たされた聖霊の油を切らさない再臨の備えの出来た者として歩みましょう。
 

11月5日の礼拝説教要旨

「復活の希望」
Ⅰコリント15:12-28

 
               2017年11月5日(日)主日礼拝
  野﨑 俊師
1.キリストの再臨の時
 ここにはキリストの再臨の時キリストにある死者が復活する事が記されています。Ⅰテサロニケにはその時の様子が記されており、再臨の時キリストにある死者がまず復活し、それから地にあるキリスト者が空中に引き上げられ共に主に会うと記されています。この先に天に召された方との再会の希望を堅く握りましょう。

2.新天新地の希望
 そして、続く箇所においてこの地に再び来られた主イエスは神の国を完成される事が記されています。その完成された神の国、新天新地の様子は黙示録に記されていますが、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」とあります。キリスト者の再会の時は、罪のない世界で、完全な愛の交わりを喜びの中、結ぶのです。

 天に召された方を思う時、寂しさはありますが、主イエスの再臨の時復活し、再会し、完全な愛の交わりを結べる事を待ち望みましょう。
 

9月24日(日)の礼拝説教要旨

「堅固な城壁に立ち向かう」
ヨシュア6:1-20

 
                 2017年9月24日(日)主日礼拝
野﨑 俊師
1.主のしもべとしての自覚
 イスラエルの民がエリコの町を攻略しようとしていた時、リーダーのヨシュアに主は一人の将を遣わし、ヨシュアはその将が自分の手助けをしてくれる敵か味方か気にしましたが、将は「いや、わたしは()()()()()として、今、来たのだ」と語り、ヨシュアはその方の前に地に顔を付けて伏し拝みました。私たちも主の働きに仕えるしもべであるとの自覚に立ちましょう。

2.主の時が満ちるまで
 そして主がヨシュアに告げられたエリコの町の攻略方法は六日間一日一周町の周りを回り、七日目には七周回って角笛の合図の後に大声でときの声をあげよというものでした。イスラエルの民たちは合計で13周町の周りを回った事になります。そして回り終えた時エリコの町の城壁は見事に崩れ落ちたのです。

 私たちも主の働きのしもべとしての自覚に立って主の時の満ちるまで仕え続けましょう。
 

10月29日の礼拝説教要旨

「何度まで赦すべきか」
マタイ18:21-35

 
              2017年10月29日(日)主日礼拝
  野﨑 俊師
1.兄弟を得るために
 この主イエスが語られた赦しの箇所はその前の所とセットになって理解すべき御言葉です。そこでは、一人も迷い出る事を願われない主の愛が示され、兄弟が罪を犯したならそれをはっきりと指摘し主に立ち返るように迫る事が語られています。そして、その兄弟の回復のために心を注いで祈るように求めるのです。

2.赦された者として赦す
 そして、続く箇所で何度まで人の罪を赦すべきかとのペテロの問いに主イエスは答えられ、無限に赦し続ける事を教えられました。それは、私たちが計り知れない主の御恵みによって霊的破産者であった者が赦された事に心を向ける時に可能になり、人を赦す時に私たちも主と一つにされる祝福に立つと教えられました。

 罪は罪としていい加減に扱わず、その兄弟の回復のために祈り、また犯された罪は主に赦された御恵みを思いつつ赦し続けましょう。
 

10月22日の礼拝説教要旨

「豊かに実を結ぶ」
マタイ13:1-9,18-23
                10月22日(日)主日礼拝
野﨑 俊師
 
1.頑なな人たち
 この種蒔きのたとえが語られた背景を見る必要があります。このたとえは、主イエスの悪霊を追い出し癒しされた御業を悪霊の力で行っているとした者たち、また主イエスがおかしくなったのではないかと心配している家族たちといった主イエスを信じなかった人々と信じた弟子たちとの対比が大きなテーマになっています。

2.弟子たちの祝福
 そして、主イエスは信じた弟子たちへの祝福を語り、彼らを励まされました。「持っている者はさらに与えられて豊かになり」と主イエスを受け入れた弟子たちは豊かな恵みの世界に導かれていく事を語られました。良い地となった彼らは豊かな実を結ぶと励まされ信じた弟子たちの祝福を語られたのです。

 私たちも、良い地として主イエスを受け入れ、祝福を受けて来た恵みを感謝し、この道にそれる事無く立ち続けましょう。
 

10月15日の礼拝説教要旨

「岩を土台とした生涯」
マタイ7:24-27
                 2017年10月15日(日)主日礼拝
野﨑 俊師
 
1.父なる神の御心を行う者
 ここは山上の垂訓の結びであり、一言でそれは「狭い門」、「いのちに至る門」から入る生き方であると語られています。「心の貧しい者」、「義に飢え渇く者」は幸いですとの言葉から始まったこの教えですが、弱さと罪深さを自覚し、十字架を仰いで主により頼み、救いの門をくぐった者として、その生き方を歩み続けましょう。

2.永遠に残る働き
 そして、そのような生き方を送った者は岩を土台とした生涯を送ったものであると主イエスは語ります。貪欲に自らの満足を追い求めて行く者の生涯ははかなく消え去り、弱さと罪深さを自覚し十字架を仰いで救われた感謝の中、主イエスの御心を求めて生きた者の生涯は永遠に残る事を主イエスは教えられたのです。

 主イエスを土台とし、その贖いと御助けを仰ぎつつ、御心を求めて生きる、永遠に残る生涯を送る者となりましょう。