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19世紀のフランスの画家ミレーの描いた「晩鐘」が、わたしは大好きです。一日の仕事を終えた農民の夫婦が、夕やみと残照の入りまじった畑に立って祈っている絵は、美しいだけでなく、人間の尊厳を感じさせます。あなたは忙しく働いていなければ充実感がないように考えておられるように思いますが、忙しく走り回っていることが充実でないことは、あなたがいちばんよく知っておられたことです。充実した人生とは「晩鐘」に見るような人間の尊厳が自覚できる生き方ではないでしょうか。
主イエスは、毎日様々なことで心配しながら生活している人たちに対して、空の鳥や野の草花から学ぶように言われましたが、この言葉から充実した生き方とは何かを学ぶことができます。充実した生き方とは
1. 生かされていることを喜ぶことです。「しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどには着飾ってはいなかった。」主は、わたしたちの美的感覚について語っておられるのではありません。一輪の花がソロモンの栄華にまさるとは、盆栽を育てている方にとって、愛情を込め、丹精して育てた盆栽が何にも替えがたい価値を感じるように、神は、愛情を込めて造られた野の花を、ソロモンの栄華にはるかにまさるものとされたのです。神がご自分のかたちに造られた人間に対してなおさらです。これを知ることが生かされている喜びなのです。
あなたが充実して生きるために大切なことは、どんな仕事をするかが問題ではないのです。どれだけ生かされている尊厳を知り、尊厳にふさわしい愛を注ぐことができるかではないでしょうか。ぜひ、聖書から、神がどんなにすばらしい方であり、生かされていることがどんなにすばらしいかを学んでください。そして、その喜びをご家族にあらわしてください。家族ひとりびとりに目を注ぎ、最善の配慮を心がけることによって、きっと充実感を感じることができるでしょう。
2. 神のみ手の中の安息です。「きょう生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の花でさえ、神はこのように装ってくださるなら、あなたがたにそれ以上よくしてくださらないことがあろうか」ミレーの「晩鐘」の力いっぱい働き、神にすべてを委ねて一日を終わろうとしている農民夫婦の姿に言い知れない安息を感じますが、このような安息こそ、今日の家庭に必要なものでないでしょうか。現代人は大人だけでなく、子ども疲れています。競争社会で心がすり減っているのです。家庭を安らぎの場とすることは、主婦が取り組まなければならないもっとも大切なことです。
わたしたちに対する神の驚くべき愛と配慮を知るならば、神を信頼し、安息することができ、この安息はいのちの回復をもたらします。「そんなことを言っていたら社会から取り残される」と言われるかも知れませんが、何もしないのではありません。「神の国と神の義」すなわち神のみ心に従い、神と喜ばれることを求めるのです。ひとり子さえも惜しまないで、わたしたちにくださった神と共に生きるなら心配はいりません。神がわたしたちの必要の一切となってくださいます。一日の苦労は一日で十分なのです。
3. 信仰による希望です。「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことはあす自身が思いわずらうであろう」ミレーの「晩鐘」の残照の入りまじった畑で祈る農夫の姿は、明日を信じて疑わない姿でもあります。明日を疑わないというのは、何かがあるとかないとかという問題ではありません。たとえ何かを持っていたとしても、今晩、魂が取り去られるかも知れないのが人間です。希望は、神を信頼するところからのみ生れるのです。
明日を信じて生きるとは「あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日のことは、その日一日で十分である」とあるように、一日に一つでも「神様ありがとう」と言えるように精一杯生きることです。そうすれば、おのずから明日は開かれるというのです。「捨ててある石竹咲くや塀の外」という句を詠んだ方がいます。塀の外に捨てられた石竹の花でさえ一生懸命に咲いているのに、わたしたちが感謝しながら生きているかを問われます。「神様、ありがとう」と言えるように、神の愛と恵みを信じて一生懸命生きてください。必ず充実感を持つことができるでしょう。
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